Stories From Another Time: マリオ・ルイ・シルヴァを偲んで
『Stories From Another Time』2026年版ハーフスピード・リマスターの新リリースに寄せて。ギタリスト、研究者、そしてボンガ『Angola ’72』の背後にいた立役者、マリオ・ルイ・シルヴァの音楽と記憶を辿る。
マリオ・ルイ・シルヴァ。ギタリスト、作曲家、そしてアンゴラ音楽史における最も重要な音楽学者のひとり。
彼はおよそ半世紀にわたり、自国アンゴラの音楽を記録し、研究し、伝え続けた。ボンガの歴史的名盤『Angola ’72』の制作に深く関わったことから、センバ、言語、口承文化、そして失われつつある記憶の調査まで。その仕事は、単なる音楽制作の枠をはるかに超えていた。
彼の逝去を受けて、ここでは二つの文章を紹介したい。ひとつは、Time Capsuleがどのように彼の音楽と出会い、再発へと辿り着いたのかについてのぼくたち自身の記憶。そしてもうひとつは、彼の晩年の生徒であり、共同作業者でもあったパーカッショニスト、テロ・モルガドによる個人的な追想である。
Stories from Our Time
“Kazum-zum-zum…” 。原始的なドラムマシン。むき出しのパーカッション。ファンキーなベースラインの上を漂うシンセサイザー。そして、 唯一無二なYAMAHA DX7の音色。
その音楽は、どこか未来的でありながら、同時にとても古い時代から届いたもののようにも感じられた。
最初にマリオ・ルイ・シルヴァのレコードを見つけたのは、サム・ジェイコブだった。北ロンドンの中古レコード店Alan’s Recordsで偶然手に取った一枚をきっかけに、彼はマリオ・ルイのカタログを掘り進めていった。そしてある日、彼が僕に「Kazum-zum-zum」を聴かせてくれた。
その瞬間、完全に心を奪われた。
催眠的なグルーヴと、一度聴いたら忘れられないリフ。しかしこの曲は、実はブルースだった。家族も、妻も、子どもも持たない、ひとりの男の孤独を歌った曲なのだ。
マリオ・ルイの音楽には、こうした矛盾や二重性が随所に息づいている。
最初に聴いたとき、いくつかの曲はどこかブラジル音楽のようにも聴こえた。ギターの響きには、バーデン・パウエルを思わせるサウダージの気配があった。しかし聴き込むほどに、その音楽はもっと奇妙で、もっと複雑な輪郭を見せ始める。
リズムの動き方が違う。アレンジはゆったりとしているのに、細部は驚くほど緻密だ。
左右から囁くように現れるパーカッション。その上を、まるで重力から解放されたようにギターが浮遊している。
サムに音楽を紹介されたあと、私たちはマリオ・ルイ本人に直接連絡を取った。幸運にも、彼はこれらの録音をリリースすることに快く同意してくれた。ポルトガル人の友人マヌエル・ゲーラの助けを借りながら、私たちは少しずつ、彼が何十年にもわたって積み重ねてきた仕事の大きさを理解していく事になる。
アンゴラの現代音楽史において最も重要な作品のひとつ、ボンガの『Angola ’72』を知る人は多いだろう。しかし、マリオ・ルイが反体制活動家だったボンガをロッテルダムのスタジオやミュージシャンたちにつなぎ、共同プロデュースし、アレンジを手がけ、全編でギターを弾いていたことを知る人は、それほど多くない。
当時のボンガはすでに有名なアスリートであり、誰もが知る公的な存在だった。だからこそ、自然とスポットライトは彼に集まる一方、マリオ・ルイは、その影に埋もれ、静かに立っていたのだった。
しかし彼の痕跡は、あらゆる場所に残されている。ギタリストとしてだけではない。研究者として、アーキヴィストとして、そして文化史家として。
彼は言語、口承伝統、古いアンゴラの歌を研究し、本や録音、作曲を通して、消えゆく歴史を記録し続けた。
1980年代に録音された彼の作品の多くは、いくつもの時間軸のあいだに宙吊りになっているように聴こえる。センバ、アフリカ民謡、ジャズ、ブラジル的な和声、ドラムマシン、シンセサイザー、パリ、ルアンダ、独立、亡命、記憶。
それらすべてが、ひとつの音の中に同時に存在している。
Bandcampに寄せられたあるリスナーの言葉がある。
「正直なアフリカ音楽。アンゴラで産まれ育った白人世代の複雑な歴史的文脈の中に置かれた音楽。そこは住所を持たない場所で、私の心の中にひっそりと住んでいる」
2021年に私たちが『Stories From Another Time 1982–1988』をリリースしたとき、初回プレスは数週間で姿を消した。しかしコロナ禍の製造遅延により、セカンドプレスが届くまでには9か月を要した。その再プレスもすぐに完売し、レコードは少しずつコレクターの手に渡り、中古市場での価格は私たちが望んでいた以上に高騰していった。
今回の2026年版では、メトロポリス・スタジオのトップマスタリングエンジニアであるスチュアート・ホークスが45回転の高音質仕様に加え、ハーフスピード・マスタリングという技法で新たにカッティングを行った。これらの貴重な音源に、さらに広がりと奥行き、そして細部の陰影が加わる事になった。
このプロジェクトの中で最も美しかった出来事のひとつは、2021年にマリオ・ルイ・シルヴァをイギリスに招き、リスボンとロンドンのミュージシャンたちと共に演奏してもらえたことだった。
今でも、マーゲイトでの最初のコンサート前のリハーサルをよく覚えている。何十年ぶりに再会する旧友たち。夜遅くまで笑い、演奏し、思い出を語り合うミュージシャンたち。家の中には、信じられないほど温かな空気が流れていた。
コンサートが始まる前から、すでに何か特別な時間が立ち上がりつつあるのを感じていた。
ロンドンでのコンサートは、私たちにとっても忘れがたい経験のひとつとなった。9月初旬の、よく晴れた日曜日。イースト・ロンドンの野外会場に、家族、子どもたち、友人、ミュージシャン、そして発売したばかりのレコードを発見した多くの人達たちが集まった。
マリオ・ルイの演奏は本当に素晴らしかった。
夕暮れへと光がゆっくり沈んでいく中で、観客がバンドと一緒に歌っていたあの瞬間を、僕はは決して忘れることができない。
当時、このレコードが世界中の人々とここまで深く結びついていくとは、自分たち自身も想像していなかった。しかしこの音楽の中にある繊細さは、国や言葉を越えて、すぐに人々の心に届いたように思う。
その翌年、マリオ・ルイ・シルヴァはアンゴラ音楽と文化への生涯にわたる貢献を称えられ、アンゴラ国家文化芸術賞を受賞した。
そして突然、彼はいなくなってしまった。
マリオ・ルイ・シルヴァは2024年、姉の葬儀に参列している最中に亡くなった。
その知らせは、あまりにも大きな衝撃だった。コンサート、リリース、そしてこの音楽をめぐる記憶のすべてが、一夜にして別の感情の重みを帯びたように感じられた。
今でも僕は、夕暮れの光の中で歌う観客の声を聴いている。
テロ・モルガドが語る、マリオ・ルイ・シルヴァの記憶
パーカッショニストのテロ・モルガドは、2021年のマリオ・ルイ・シルヴァUKツアーに参加した。アンゴラの作曲家であり音楽学者であるマリオ・ルイのもとで長年学び、密接に仕事をしてきた人物である。
テロはパーカッショニストの家系に生まれ、ルゾフォニア、つまりポルトガル語圏アフリカの音楽研究に深く関わってきた。晩年のマリオ・ルイにとって、彼は最も近しい生徒であり、共同作業者のひとりとなった。
以下の文章は、テロ・モルガドによるマリオ・ルイ・シルヴァの回想をもとに構成したものである。
「マリオ・ルイ・シルヴァは、アンゴラにおける非常に重要な音楽家であり、作曲家であり、音楽学者でした。彼は約45年にわたって、アンゴラ音楽を研究し、学び、書き、作曲し、演奏し続けました。その中には、多くのクラシックと呼ぶべき作品も含まれています。
私は彼のことを“マリオ・ルイ教授”と呼んでいました。
でも彼は、それを嫌がっていました。
彼はいつも私にこう言いました。
『いや、モルガド、私を教授と呼ばないでくれ』
それに対して私はこう返していました。
『いいえ、あなたは教授です。だって、私があなたに連絡を取ったその日から、ずっと私に教え続けてくれているのですから』
私が最初に彼に連絡を取ったのは、ロンドン大学SOASで修士課程にいたときでした。論文のために、彼の助けが必要だったのです。でもその後も彼は、何年にもわたって私に教え続け、導いてくれました。
最後の5年間、私たちはほとんど毎週のように電話で話していました。音楽を送り合い、録音、本、物語、資料を共有してくれました。私が学んだ資料の多くは、彼自身が書いたもので、直接彼から受け取ったものでした。彼はいつも私に宿題を出していました。
ミュージシャンの友人たちからは、彼と時間を過ごせるなんて本当に恵まれている、とよく言われました。
彼はボンガの象徴的なアルバム『Angola ’72』に参加していました。ギターを弾き、その多くのアレンジを手がけた。あれはアンゴラ音楽史において、最も重要なレコードのひとつなんです。
私はこのレコードを家で聴いて育ちました。当時の多くのアンゴラ人同様、両親がレコードを持っていたからです。でも当時は、その背後にマリオ・ルイがいたことを知りませんでした。後になって、彼がギターを弾き、アルバム全体のアレンジをしていたと聞いたとき、とても驚いたのを覚えています。
彼の知識は信じがたいほど深いものでした。私は多くの音楽学者や研究者の本を持っていますが、正直に言って、アンゴラ音楽史において彼ほどの仕事をした人はいないと思います。
彼の音楽は文学とも深く結びついていました。研究においても、作曲においても、執筆においても、彼は何世紀も前の歴史へと遡っていく。たとえば「Madia Kandimba」のような曲には、近代アンゴラという枠をはるかに越えた歴史が宿っています。
マリオ・ルイは、リセウ・ヴィエイラ・ディアスのことをよく話していました。彼はリセウを、自分にとっての精神的な師だと語っていました。リセウやジュリオ・シルヴィオ・エレディアスのような人々を通して、彼は古いアンゴラの音楽伝統、そして伝統的なリズムをギターへ移し替える方法と深く結びついていきました。
彼にとって、音楽は歴史、哲学、文化的アイデンティティから切り離されたものではありませんでした。
私がいつも驚かされていたのは、彼の生活のあらゆる面に、どれほど深くアンゴラが息づいていたかということです。音楽だけではありません。話し方、食べるもの、ユーモア、日々の習慣。そのすべてにおいてです。
彼はキンブンドゥ語を流暢に話し、ウンブンドゥ語も少し話しました。彼のポルトガル語には、本物のアンゴラのスラングや表現がたくさん含まれていました。彼には、とても誠実で、真にアフリカ的なアンゴラのアイデンティティがありました。
彼が亡くなった今、私はますます強く感じています。私が彼に惹かれていたのは、教師として、音楽学者としてだけではなく、彼がひとりの人間として本当に魅力的だったからなのだと。
彼はとても謙虚で、控えめな人でした。
でも同時に、素晴らしいユーモアの持ち主でもありました。よく笑い、とてもカリスマがあり、一緒にいると本当に楽しい人でした。彼には、いつまでも若い精神がありました。
マリオ・ルイ・シルヴァを失ったことは、今でもなかなか受け入れられません。
でも私は、彼が若い世代の人々に自分の音楽が発見されていく様子を、その目で見ることができたことを嬉しく思っています。アンゴラやポルトガルだけでなく、世界のさまざまな場所で。
これから人々は、彼が成し遂げた仕事と、彼が残した遺産の大きさに、ますます気づいていくはずです。
私にとって彼は、人生で最も重要な人物のひとりです。
そしてそれは、これからも変わりません」
オリジナルのライナーノーツは以下から読む事が出来ます。👇
マリオ・ルイ・シルヴァ:緻密なギター研究を通じて探求されたアンゴラ大衆音楽のルーツ
マリオ・ルイ・シルヴァ(Mário Rui Silva)が最初に覚えたコードはAマイナーだった。音楽環境に満ちた家庭の中、彼が9歳のときに妹のパウラから即興のギターレッスンを受けたことがきっかけである。父はギターを弾き、母はイタリア、フランス、ブラジルの大衆音楽を歌っていた。彼らは、ポルトガル植民地支配下のアンゴラ共和国の首都ルアンダにおいて、下級のブルジョワ層に属する家庭であった。1952年3月8日に生まれたシルヴァは、1975年にアンゴラが独立を果たしたとき、すでに23歳になっていた。
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