ニッポン・アシッド・フォーク。昭和のカウンター・カルチャー音楽の歴史を紐解く
日本におけるカウンター・カルチャー音楽の誕生は混沌としながらも情熱にあふれた1960年代後半の学生運動の終焉から始まる事になる。
日本におけるカウンター・カルチャー音楽の誕生は混沌としながらも情熱にあふれた1960年代後半の学生運動の終焉から始まる事になる。反骨精神に溢れながら独自の表現を模索したこのムーヴメントはダダ主義者、共産主義者、薬剤師、そしてカルト・リーダーによって引率され、若い学生、アーティスト、夢追い人等が自らの世界を逆転させようと情熱を燃やしていた物語だった。
東京や京都、大阪のキャンパスで産まれた日本独自のフォーク音楽は60年代後半から左翼思想の日本初独立レーベルであるURC(アンダーグラウンド・レコード・クラブ)を中心に栄えて行き、西洋音楽のコピーから脱却を目指していた当時の日本の音楽家達はここで新たな表現を開拓して行く事になる。
その最前線に常に居たのが日本が誇る音楽家である細野晴臣。その後に結成されたY.M.O.で世界でその名を知らしめる事になるが、国内での評価を決定づけたのは本コンピレーション収録のはっぴいえんどの一員として初めて日本語をロックに載せる事に成功させた事だった。関西フォークの西岡たかし等がですます口調で日本語の節を調整させた事から始まり、その後の成田賢を含め彼等は日本語による表現にこだわり、その精神と影響は現代まで受け継がれる事になる。
ここでは60年代後半の社会的・音楽的背景を振り返りながら日本独自のカウンター・カルチャー音楽の誕生とその最初の10年の歴史を辿る。
1967年の1月、ジョーン・バエズ(*60年代初頭から活躍する女性シンガーソングライター。ブレイク前のボブ・ディランを紹介する等、フォーク音楽のパイオニアの一人として有名)は大阪と東京で開催された学生団体による反戦集会に招待された。この頃にはアメリカ同様、日本のキャンパス全体でも学生運動の勢いが増し、そのサウンドトラックとなっていたのがフォーク音楽だった。両イベントには合計で3,000人以上の人々が集まり、アメリカ人の歌姫が「風に吹かれて」や「勝利を我等に」を歌う姿に心を奪われながらも、日本の若者等は自国の抗議運動のテーマ曲を模索している時だった。
日本の学生たちにとってもベトナム戦争は中心的な関心事だったが、同時に彼等の抵抗感情は日本国内の問題にも向いていた。第二次世界大戦終結以来、国内に米軍基地が引き続き占領することに対する抗議は断続的に起きていたが、アメリカ空軍が沖縄の基地からベトナムに対する攻撃を開始したことで、彼らの不満は一層深刻なものとなる。
戦後の日本の西洋文化への関わり方は同様に非常に複雑で、矛盾していたものだった。西洋のトレンドや音楽的流行は驚くほどの速さで自国の文化に取り入れられて来たが、その一方でこのように全面的に西洋文化を受け入れる大衆の態度は、日本文化が希釈されることを嫌う保守伝統派と、西洋スタイルの単純なモノマネを嫌う前衛派の両方のインテリからの反発を買う事になる。このようにして戦後の日本の商業音楽はグローバル化されていく日本の文化民度を図るバロメーターの役割を果たす事になっていく事になる。
1960年代半ばに英米のポップ音楽が日本の文化により浸透し始めると、2つのあるシーンが出現する。まずはビートルズから事を発する世界的な「ブリティッシュ・インヴェイジョン」(*イギリスのロックやポップ・ミュージックをはじめとする英国文化がアメリカ合衆国を席巻し、大西洋の両岸でカウンター・カルチャーが勃興した現象)により、日本でも同じようなスーツを身に纏い、”スパイダーズ” のような一言名を持つ似たようなバンドが量産される事になる。ライブでは英国バンドのカバーを演奏しつつも、テレビを通じてお茶の間にも登場し日本語の歌謡曲を歌う彼等は「グループ・サウンズ(GS)」と呼ばれた。また同じ頃に東京では「カレッジ・フォーク」が登場。ピーター、ポール&マリーと言ったアメリカの比較的ポップなフォーク・ソングに影響を受け、GS同様、若干マイルドな反骨精神を持つ中流階級の20代の若者を中心に演奏されていた。相反するスタイルや政治思想のように見えるGSとカレッジ・フォークだが、そのどちらもが日本の社会構造や音楽業界を揺るがすような意識改革をもたらす事はなく、当然カウンター・カルチャーとしてのインパクトはさほど無かった。
ところが東京の外に出ると様子は少し違っていた。京都、神戸、大阪を抱える関西地域は昔からよりエッジの効いた地域性で評判だが、ある意味、社会の末端がここではより鋭く研ぎ澄まされており、より大胆で過激な音楽ムーヴメントがこういった関西地方都市部のフォーク喫茶から産み出されるも不思議では無かったのだ。
当時の関西地方ではピート・シーガーやボブ・ディランの様なより明確に政治色が強いフォーク音楽の影響が強かった。そんなメッセージを心に刻んだ若者の一人が岡林信康。キリスト教の牧師の息子で、神学生だった彼は、1968年に京都で開催された「フォーク・スクール」のコンサートでステージに上がり、自身が育った教会や社会体制の偽善に対する辛辣な非難を綴った「くそくらえ節」を披露し、大きな波紋を広げる。ここで覚えておきたいのは、当時の日本の全てのレコード会社は音楽を再生するハードウェア機器を販売していた家電・電器メーカーがそのソフト(音源)を制作・販売する為に存在しており、当然この業界はそのような商業的企業体質の上に成り立っているという事実である。その為、この曲は1968年にビクター・レコードでのリリースが予定されていたものの、音楽産業界の倫理委員会によって曲は封印。発売禁止に追い込まれる事になる。
それでも、この「くそくらえ節」はある種の転換点となり、そこから1年余りの時を経て最終的にリリースされるが、その為にはまず日本の商業音楽史に新たな章が書き足される必要があった。
「私達は、現状では日本のレコード界は民衆への音楽文化の一方通行の役割しか果たしていないと考えます。民衆の中から生れ、民衆自身がつくり出したすぐれた歌が数多くあるにもかかわらず、さまざまな制約から、商業ベースにのりうる歌や、歌い手はそのごく一部です。そこで私達は、優れてはいても商業ベースにのり得ないものを集めて、私達自身の手でレコード化し、クラブ会員のみを対象として、レコードを製作配布します。」
上記の宣言をもって、元共産党員の秦政明は1969年2月、日本初のインディペンデント・レコード・レーベルである「アンダーグラウンド・レコード・クラブ」(URC)を設立する事になる。より規制を強化する倫理委員会を迂回するための会員制の通信販売のみ、つまり50年以上前に世界初のサブスクとして始まったこの画期的なレコード・レーベルは、瞬く間に会員数が殺到。その年の終わりまでにはURCは会員制度を廃止し、他のどこからも縛られない完全独立した日本最初のレコードレーベルとして全国130のレコード店との独自流通網を構築したのだった。
最初を飾ったのは高田渡のアルバムで、「自衛隊に入ろう」では日本社会の軍事化を痛烈に批判。皮肉的な歌詞を理解出来なかった当時の防衛庁から一時はPR曲のオファーを受けるも、逆に翌年にはその社会的影響から放送禁止に追い込まれる。共産主義活動家の息子である高田の音楽が特に重要だったのは、その社会政治的なメッセージの力強さではなく、彼が仕向けた巧みな作曲形態だったのだ。
高田はアメリカの同時代の音楽家から影響を受けると同時に、日本の音楽史にも視野を向けていた。その頃には既にそのほとんどが男と女の関係を歌うのが日本の演歌だったが、元々明治時代や1920年代頃の日本の演歌には社会的で政治批判を含む歌が多く存在していた。高田はデビュー・アルバムでそのような演歌のルーツを作品に取り入れる事で、日本が直面していたプロテスト・ソングのジレンマを徐々に解消する事になる。それはつまり、自己のアイデンティティに忠実であると共に、その発想のキッカケを与えてくれた西洋の音楽的アイデアによる影響にも忠実であるというジレンマに対する解決方法だった。この曲が日本の商業放送協会によってブラックリストに載せられたことで、日本のアンダーグラウンドシーンと公に認可された音楽産業との間に生じ始めていた溝がさらに広がる事になる。
ちょうどこの頃の関西地方には大量の大型スーパーやモールが作られ、開発が加速。そんな経済成長を反映する短期や日雇いの仕事も多く、月に10日も働けば残りの20日はミュージシャンとして暮らして行けるような若者の環境があった。更にそんな1970年3月から9月にかけて、アジアでは初となる万国博覧会が大阪で開催。世界中から興味深いアーティストや科学者等が一気に集合し、大量の観光客も訪れた。大阪はその期間、限定的に国際的な都市に変身し、欧米人が経営するバーでの仕事など、欧米文化を生で体験出来るような短期仕事も多く、万博の開催前までは反対していたミュージシャンも始まってしまえばお祭り状態で参加。この前年に日本でも放映されたイージー・ライダーやウッド・ストックの興奮が冷めやらぬまま大阪に居ながら世界の空気を吸っていたようだった。
そのようにして1960年代が終わると同時に学生運動は一気に収束。時代には何かがシフトしたという感覚だけが残った。日本にはオルタナティブな音楽が普及するためのインフラが整い、自己の音を見つけるための模索的な活動が出来る土台が出来つつあった。そして1970年以降、本作「Nippon Acid Folk 1970-1980」に収録されている音楽が産まれる事になる。
60年代という時代の終わりは、岡林信康にとって特に厳しかった。過去三年間の学生運動による楽観的主義が内輪もめで崩壊して行く様を見つつ、それでも過度に政治的姿勢を強制される音楽活動に限界を感じ始めた岡林は新たな方向性の必要性を感じていた。
そんな1970年の初頭、岡林は東京でURCと契約したばかりの細野晴臣の最新プロジェクト、はっぴいえんどのリハーサルを訪れる事になる。細野が国際的な名声を得るのは、その後のイエロー・マジック・オーケストラのメンバーとしてだが、彼の国内での名声を決定づけたのはこのはっぴいえんどだった。1969年に松本隆、大瀧詠一、鈴木茂と共に結成されたはっぴいえんどは、グループ・サウンズとカレッジ・フォークの人気が次第に衰え始めた頃に産まれ、結成当初から日本語によるロック音楽の形成を試みていた。一方、日本語でロックは作れない、海外に認知されるには英語でロックをやるべきとの主張をしていたフラワー・トラベリン・バンドのプロデューサーである内田裕也と公然に対立し、これは後に「日本語ロック論争」として知られるようになる。
デビュー・アルバムを既にURCと契約していたはっぴいえんどだったが、東京でのリハーサルを聴いた岡林は衝撃を受け即彼等に岡林の次作におけるバック・バンドの役割をオファー。アコギ1本で歌うフォークのスタイルだった岡林のスタイルを一新させ、まるでその数年前にザ・バンドを得たボブ・ディランがごとく、はっぴいえんどは岡林のエレキ化に成功。そのサウンドをレコードやコンサートで披露する事になる。その年の8月には、はっぴいえんどは自身の名前を冠したデビュー・アルバム、通称「ゆでめん」をリリース。バッファロー・スプリング・フィールド、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、シカゴ、グレイトフル・デッドのようなバンドから音楽的インスピレーションを得ながら、全編日本語で歌われた最初のロック・アルバムと広く認知されるものを作り上げた。作詞を担当していたドラマーで文学青年だった松本隆は関西フォークの西岡たかし等が関西弁やですます口調等を使い日本語の節を調整する事に強く影響を受けたという。
本作に収録されているはっぴいえんどの「風をあつめて」は、1971年11月にURCからリリースされた彼らの2枚目のアルバム「風街ろまん」からの楽曲。その後の日本の音楽界に多大な影響を与える日本語ロックの金字塔となったこのアルバムのほぼ全曲の作詞を担当した松本の中心となるテーマは、1964年のオリンピックによってもたらされた開発前の東京へのノスタルジーだっが、このようなノスタルジックな歌詞はその後の日本の高度成長期に青春を送る世代のBGMには欠かせないテーマの一つであり、松本はその後、数多くの歌謡曲の歌詞を手掛ける事になる。大瀧詠一はレーベル設立やソロ活動の他、山下達郎を世に送り出したりする等、はっぴいえんどのメンバー全員はその後の日本の商業音楽を支える重鎮になって言った。ジョーン・バエズが歌った「風に吹かれて」の歌詞にあるように、時代は常に変わりつつあったが、はっぴいえんどは「終わり」ではなく、次の時代への始まりだったのだ。
西岡たかしは岡林信康同様、当時の関西フォーク・シーンの柱の一人として評価されていたミュージシャン。1944年に大阪で生まれ、60年代初頭の多くの日本の10代の若者と同じような音楽遍歴を歩む事になる。最初はビートルズに夢中になり、その後はP.P.M.とブラザーズ・フォーと聴いていくが、次第にメッセージ・ソングの研究の会の中心として関西で活動。1967年に、五つの赤い風船というグループを結成し、そのデビューアルバムは、URCの最初のリリースである高田渡の「自衛隊に入ろう」の裏面に収録される事になる。
翌年、西岡は1960年代後半に活躍しその後の日本のロック界に多大な影響を及ぼしたサイケデリック・ロック・バンド、ジャックスのメンバーでマルチ楽器奏者の木田高介と、フォーク歌手の斉藤哲夫を連れて本作収録の「あんまり深すぎて」を収録した1枚限りのスタジオ・アルバム・プロジェクト、溶け出したガラス箱を制作、1970年に発売。細野晴臣や加藤和彦もゲスト参加し、現在では日本のサイケデリック音楽の元祖でアシッドフォーク名盤としてカルト的な人気を誇るレコードとして称賛されている。しかし西岡自身の言葉によれば、彼はアメリカのドラッグ文化を中心とした当時のカウンター・カルチャーよりも、1910年代の欧州を中心に勃発した芸術運動である「ダダ主義(*伝統的な価値観を壊して新しい芸術を生み出すこと)」からの影響が大きかったそうだ。
五つの赤い風船の解散後、西岡はソロのレコーディングを開始。本作収録のタイトル曲を収録したアルバム「満員の木」を1973年にURCからリリースする。グループ作品からの明白な脱却として、このアルバムでは、作詞、作曲、編曲、歌唱、そしてほぼ全ての楽器を自分で演奏、西岡のマルチ奏者としての特異な才能を発揮している。繊細かつ力強い音作りから日本における一人多重録音の元祖作品としても評価の高いこのアルバムだが、同時に西岡が日本語の歌詞をいかに繊細に扱っていたかが伝わってくる。
日本の近代児童文学の創世記にもっとも重要な影響を与えた児童雑誌からそのまま名前を取ったグループ、赤い鳥は、関西のフォーク・シーンから産まれた五部構成のボーカル・グループとして後藤悦治郎によって結成。1971年に発売した代表曲「竹田の子守唄 /翼をください」で全国的にその名を知らしめる事になるが、彼等も元はURCからデビュー・リリースをし、アングラな世界からそのキャリアを築く事になる。
YMO、荒井由美(現・松任谷由美)などが所属していたアルファ・レコードの創設者である村井邦彦のプロデュースによって、赤い鳥は1970年から1974年の間に10枚のレコードをリリースし、その最後のアルバム「書簡集」から本作収録の「ほたる」が産まれる。彼らの特徴的なボーカル・ハーモニーに支えられたこの曲は、後期にドラマーとしてグループに加わり、その後もさだまさしの音楽プロデューサーを勤めたり、数々のアニメサントラを手がけた渡辺俊幸によって書かれた。
上記までの当時の日本のフォーク・ロック・シーンのほぼ全てに繋がっているのがシンガー、成田賢。後にフラワー・トラベリン・バンドのギタリストとして活動する石間秀樹と共に1960年代後半から様々なグループで歌手として活動してきた成田は1967年にGSグループ、ザ・ビーバーズでメジャーデビューを果たす。1971年にミッキー・カーチスによるプロデュースで初のソロ・アルバム「眠りからさめて」を村井邦彦等が主宰する音楽レーベル、マッシュルームからリリース。本作収録の「銀河鉄道の夜」が収められたこのアルバムにははっぴいえんどの鈴木茂も参加し、日本のフォークロック史上に残る名盤となった。この後、成田はスタジオ・シンガーとしてコマーシャル・ソングも手掛けるようになり、東ハト「キャラメルコーン」のCMを皮切りに230曲ほどのコマーシャルソングと、多くの名作アニメ・特撮番組のテーマ曲を歌唱する事になる。
このようにしてURCやはっぴいえんどを中心に発展していった70年代初頭の日本のフォーク・ロック・シーンだったが、そんな中にも大久保一久のようにその後プロとして活躍する以前から既に自らのサウンドを築き、自主制作でひっそりその才能を録音していたアーティストも存在していた。その後は猫や風と言ったフォークグループで活躍後、ソロとしてもプロで活躍するもデビューから10年後には薬剤師としての仕事に就く事になる大久保は、10代の頃から日本フォークの源流の一つと言われる広島フォーク村というサークルに所属し、東京へ進学していた兄を追う形で上京。大学を卒業後、薬剤師としての資格を取得後にその卒業記念として大学時代に活動していたバンド、ににんがしと本作に収録されている「ひとりぼっち」を含む自主制作盤アルバム「Heavy Way」を1974年に制作。繊細なボーカルとニールヤングを彷彿させるかのような乾いた音、そして見事にメロディと連鎖している日本語歌詞は全て大久保の作詞作曲の作品であった。
上記までの日本のフォーク・ロック史の文脈とは若干離れつつも、アシッド・フォークというコンセプトが反体制というアイデアに直結しているという意味では最後に取り上げる玉木宏樹ほどアシッドな音楽家は居ないように思える。1943年、神戸で産まれ6歳まで山の上の禅寺で育てられたという玉木は中学時代からバイオリンの手解きを受ける。中高大学と常に首席の成績で入学をし、東京芸術大の学生時代から東京交響楽団の団員となるが、集団生活になじめず脱退。1965年に大学を卒業後は自らの弦楽四重奏団を主宰し、全員をエレキ化させる等、革新的な演奏で注目を浴びたが、同時に批判的な意見も多かったという。その頃から西洋音楽の基礎とも言える平均律にも反発を覚え、純正律を採り入れた作曲方法を多く用いていた。その後は徐々に商業音楽に傾倒し映画やTVドラマ等での作曲活動を始める。1975年には後に第4のY.M.O.メンバーとも称される松武秀樹をシンセ奏者に迎え、日本初のエレキ・ヴァイオリンを用いたプログレ・ロック・アルバム「タイム・パラドックス」を発売。その4年後にはMIDIの発明以前に8台のシンセサイザーとフル・オーケストラを共演させライブ録音をした交響曲「雲井時鳥国」を発売する。
そしてそのリリースの1年前に、玉木はインド出身の有名な精神指導者で文字通りカルト的な人気を誇る宗教家的リーダー、バグワン・シュリ・ラジニーシ(通称・オショー)の教えに出会い衝撃を受ける事になる。その2年後の1980年には玉木はオショーの教えを自らの詩にまとめあげ、初めて自身の声を多重録音し歌い上げたトリビュート・アルバムを創り捧げる事になる。2009年のアルバム再発CDのライナー・ノーツで本人は次のように述べている。「ラジニーシの教えを私がちゃんと理解した自信は全くありませんが、自分なりの理解では、人生とは宗教、体制を問わず、あらゆる習慣や因縁にとらわれて自由に動けない人たちへの強力なプロテストである、という事でした。」
細野晴臣やサンタナ、アース・ウィンド・アンド・ファイア、タンジェリン・ドリーム等のレコード・カバーも手掛けた日本が誇るサイケデリック・アートの第一人者である横尾忠則によるオショーの似顔絵で飾られたこのアルバム「存在の詩」から「河」と「Beautiful Song」を本作の両面頭に収録した。
玉木の音楽は前述した60年代末のプロテスト音楽と直接的な繋がりがあるわけではないものの、ジョーン・バエズで始まりオショーで終わる本作の物語はアメリカにおけるフォーク音楽とサイケデリック音楽を巡る激動の10年の歴史の輪郭をなぞっているかのようにも思える。1981年、オショーはアメリカ、オレゴン州に政治的・精神的自由を求め巨大コミューンを創り一時期は地方自治体を乗っ取るも、憲法違反として逮捕、国外退去を迫られる事になり、近年でもその団体の過去には何かと疑問視されている事が多い。
ちなみに本作で国内のみならず国外でも有名な日本のサイケ・プログ系バンド群をあえて避けたのは、彼等のほとんどが英語で歌っている事も含めて、より国外マーケットに目を向けた作品であり、その音楽的な素晴らしさはさておき、今回の文脈ではより当時の日本の社会や文化を反映した作品に焦点を当てた。次作ではこのサイケデリックな影響と反体制的な衝動がよりカラフルでソウルフルな音楽に覚醒した様子に焦点を当てるが、その為にはまず、我々は1970年のはっぴいえんどという日本のカウンター・カルチャー音楽にとっての幸せな始まりに再度戻る必要がある。(つづく)
Anton Spice & Kay Suzuki
🌀 Nippon Acid Folk & Psychedelic Soul 相関図(1970–1980)
2つのコンピレーションに収録されたアーティスト、バンド、レーベル、シーンのつながりを一枚にまとめたマップ。URCを起点とする関西のアシッド・フォークから、東京を拠点に広がるサイケデリック・ソウル、ニュー・ミュージック、テクノ・ポップへの流れまで。1970年代の日本で、音楽と言葉がどのように混ざり合い、変化していったかを可視化しています。
ジャンルではなく「交差点」を見るための地図。もうひとつの日本音楽史の入り口として。ダウンロードで拡大可能。
🌿 続きはこちら:
『Nippon Acid Folk』の続編にあたる『Nippon Psychedelic Soul』では、1970年代日本のサイケデリックな音楽文化をさらに掘り下げています。
アシッド・フォークのその先へ。👇
有料購読者限定の特典:
今月のBandcamp用ディスカウントコードはこちら。👇














