小林”ミミ”泉美: 抑えきれない独創性と唯一無二の存在感。
うる星やつら主題歌「ラムのラブソング」を作曲。70年代後半から80年代前半に数々のラテンジャズフュージョンやエレクトロブギの名作アルバムを日本で残し、84年から現在も英国に在住する伝説的日本人作曲家・ピアニスト、小林”ミミ”泉美の物語。
小林“ミミ”泉美は、現在、1,000曲を暗譜するミッションの真っ只中である。誰に頼まれたわけでもない。60代半ばを過ぎてもなお現役ピアニストで作曲家でもある彼女は、未だに新たな挑戦を探し続けているのだ。ジャズ・スタンダード、ポップス、クラシック組曲、思い浮かぶ音楽はどんな種類でも覚える。今日の課題はリズムの練習だと言う。左手ではアフロ・ビート、右手でメロディを弾く。そして更にキーを変えて、オフビートでプレイする。「今は歩いている時もオフビートを意識してるんですよ」と笑って言うが、恐らく彼女の人生そのものがオフビートなものだったのだろう。
1957年、シングルマザーの一人娘として生まれたミミは、東京湾に近い船橋の漁港街で育った。音楽に対する好奇心が人一倍強かった彼女が最初に心をときめかしたのは、60年代の日本で台頭するアイドル歌手ではなく、ブラジルの歌手Astrud Gilbertoだった。ミミの母は早熟かつ異常なまでの入れ込みようを見て、「あなたって本当に変わってるわね」と言いピアノの教師をつけるも、ミミにとってはいつまで経っても自分に自信が持てず、楽譜通りに弾くことほどつまらない事はないと感じていた。
そんな音楽に夢中になりながらも足をしっかりと地につけていたミミはある時、2つの選択肢を与えられる。母方の多くの親族同様、医師としての道を歩むべきか、あるいはただ一人、音楽家として独り立ちの道を歩むか。受験した学校は両方合格。それでもミミが音楽の道を選んだ理由の一つは、それで即座に生計を立てる事が可能で、母を支えながら高校に通い続ける事が出来るからでもあった。14歳で働いていたパン工場をクビになった彼女は、代わりに地元の年上のミュージシャン等の演奏仕事に加わる事でそれなりの収入を得ていた。そうした先輩たちの年齢に達する頃には既に多くのライブやレコーディングに明け暮れ、セッション・ミュージシャンとして成功の道を歩み始めていた。「純粋に運が良かっただけ」とミミは語るが、にわかには信じがたい。働き者ほど成功を幸運の賜物と謙遜する傾向があるからだ。「しかるべき人々やミュージシャン達と出会えたおかげですね。苦労した事なんて特に無いし、次から次へとただ自然に起こったって感じです。」そんなミミは17歳で地元の米軍キャンプのバンドに加わった頃には、Ohio PlayersやEarth, Wind & Fire等のファンクを演奏していたバンドにオルガンで参加し既に注目を浴びていた。1976年にはASOCAのメンバーとしてヤマハ主催のアマチュア・バンド・コンテストEast Westで優勝し、その数年後にはラテン調のデビュー・シングル「My Beach Samba」をリリースする事になる。
これらの出来事は偶然の結果ではなく、むしろ単なる序章に過ぎなかった。当時の日本の音楽業界が若い女性ミュージシャンに興味を寄せる時にはある種の期待が伴ったが、ソニーがミミに興味を寄せた時にも彼等としては純粋なジャズ・フュージョン・ピアニストを求めていたわけではなかった。灰色のスーツを身に纏うレーベル幹部たちは、ミミが初めての面談に海をひと泳ぎしてきたばかりの濡れた髪とビーチサンダルで現れた事に目を丸くしたそうだが、 「私はただニコニコしてクスクス笑っていただけよ」と、今でも当時を思い出しながら笑っている。「でも、私のマネージャーは賢くて、この子は服やファッションに興味がないからポップスターにはなれないと見抜いたんです。」 アルバム制作の契約が最終的に提示されたときも、ミミはありのまま、ビーチサンダルでしっかりと地に足を踏みしめ自身のバンドASOCAと共にレコーディングすることを条件にして承諾。 そして、不屈のバンドリーダー、小林”ミミ”泉美とFlying Mimi Bandが誕生する事になる。
このグループでのファースト・アルバム「Orange Sky」は1978年にリリースされ、クレジットには若手サックス奏者の清水靖晃も名を連ねていた。ピアノを始めてから僅か10年余りの歳月、若干21歳にして全曲の作曲とプロデュースを自身で手がけたミミは既に驚異的な才能を存分に発揮。この時の宣伝素材にはHerbie Hancockとの記念写真も掲載されたが、後にミミは彼の共演者の多くを起用することになる。その半年後、ハワイでのサーフ・レッスンの合間を縫って制作された2枚目のアルバム「Sea Flight」をリリース。しかし、業界による巨額の予算とアイデアの波に乗りながらも、ミミは両者の狭間にいる自分に気がつく。全てが急速に進展していく中でも、彼女は依然として川口にあるシェア・ハウスで他のミュージシャン達と学生のような生活を送りながら切磋琢磨し続けていた。TVや広告の仕事にも没頭し、息をつく暇はほとんどなかった。 その後、Flying Mimi Band はある意味自らの成功の犠牲者となる。アマチュア・バンドから全国的な注目を集める存在へと急速に躍進し、メンバーの多くがよりギャラの良いライブに引き抜かれ、それぞれ活躍の場を広げて行った。ミミ自身も唯一の女性ミュージシャンとして伝説的なフュージョン・ギタリスト高中正義のツアー・バンドで活躍。そして1981年、高中の所属するキティ・レコーズが彼女の本格的なデビュー・ソロ・アルバムを制作する事になる。
再び自由への切符を手にしたミミは、後に『Coconut High』となるアルバムをレコーディングするためにLAへと旅立ち、街のジャズ・ファンク界隈に身を置きながら、一緒にやる新しいバンドメンバーを厳選していった。ドラマーのAlex Acuña (Weather Report)やHarvey Mason (The Headhunters)、ベーシストのAbraham LaborielやFreddie Washingtonといった面子を苦なく集め、Tower of Powerのホーンセクションも加わった。全員がミミの書いた楽譜を読み、2回ほど合わせた後、3回目には録音ボタンが押されていた。ある夜、小さな会場で現地のレゲエのバンド、Babylon Warriorsの演奏を楽しんでいたミミは、ライブ終了直前に舞台裏へと回り、レコーディングに参加して欲しいと突如願い出た。「あなた、一体何者?」という感じだったとミミは振り返るが、このはったりを利かせた行動に彼らは難なくOKした。
言うまでもなく、ミミはすぐに皆と打ち解ける。スタジオで起きた文化の違いを彼女は面白おかしくこう語る。「私が書いたコードシートが彼らには理解できなかったから、大きな紙に大文字でコードを書いて一つずつ棒で指しながらレコーディングをしたの。」日本の音楽シーンで楽譜を読むことの厳しさを学んだミミにとって、この経験は後の作品作りの基盤となる直感的な制作スタイルに大きな影響を与える事になる。その時録音した「Lazy Love」は、同アルバム収録の「Crazy Love」のレゲエ・ヴァージョン。印象的なアルバム・カバー(本コンピレーションの別テイク)で、Kid Cerole and the Coconutをも彷彿させるラテン風味のこのアルバム「Coconut High」は未だに高い評価を受け、中古市場でも常に高値を付けている。
ミミの勢いはその後も止まらなかった。来たものは全て受け入れる精神で彼女が次に取り組んだのは二つのソロプロジェクト、1982年の『ナッツ・ナッツ・ナッツ』と1983年の『トロピカーナ』。最初のプロジェクトは電子プログラミングと管弦楽を組み合わせて実験するためのもので、2枚目はミミの自由気ままな空想の産物だった。「おバカなポップ・ソングをただやってみたかったんです。」どんな大きな成功をしようともミミは物事を真面目に考え過ぎるタイプではなかったのだ。
だからといって、ミミが音楽制作に対して不真面目な態度をとっていたわけではない。プロセスのあらゆる段階に関わりたい言う強い思いを持っていたからこそ、他と一線を引いていたのだろう。事実上、全作品のプロデューサーであったミミは、1980年代初頭の日々進化していく最新の電子楽器に対しても執拗な関心を寄せていた。
様々な機材とその音響の可能性に魅了され、まだ誰も持っていないような機器を集め始めた。E-mu Emulator 2サンプラーやLAで1万ドルで購入したLinnDrumドラムマシンを駆使し、強引にもアニメの主題歌にレコード会社の社長の反対を押し切りながらも取り入れた。オーケストラや生楽器がまだ主流だった当時のアニソンにおいてはかなり過激な動向だったが彼女には確信があった。依頼を受けたその新作アニメはミミが普段から愛読する漫画だったため僅か10分で作詞作曲。結局、『うる星やつら』のテーマ曲「ラムのラブ・ソング」は50万枚の売り上げを記録し、アニソン史に残る名曲として今も日本中から愛され続けている。 ミミの物語にはこうした魔法のような瞬間がたくさん散りばめられているが、彼女はあまりそういった話題に固執しようとはしない。名声を手に入れるという事は、ミミにとって最も遠い関心事だったが、1980年代の彼女に選択の余地はなかったのだ。その名前がどんどん知れ渡るほど、ミミは周りの期待から尻込みをしていた。そんな日本でのキャリアが新たな高みに達しようとしていた矢先、ミミは更なる挑戦を求めて日本を離れることを決意し、ワーナー・ブラザースUKが企画したヨーロッパ・ツアーに参加するために荷物をまとめた。またしても母親が大層困惑して放った言葉をミミはよく覚えている「なんてバカな子なのあなたは!」と。
6ヶ月のつもりだったその旅は、今や40年以上の月日を数える事になる。しかしミミにとっては必然だったのだ。「日本に居た時は自分がレコード会社の商品の様に感じられたんです。実際よりも大きく見せられているようで、とても不自然でした。」そのようにして大規模なチームと豪華な待遇から、ミミはまた基本に戻る。キーボードのセットアップや片付けを自ら行うことが求められたロンドンでの初パフォーマンスは、とても新鮮で、ミミにはそっちの方が性に合っていた。「派手な世界が好きじゃなかったんです。私は純粋なミュージシャンで、音楽が好きで、良いミュージシャンと一緒に良い音楽を演奏したいだけ。ロンドンだとそんな自分がちゃんと見える気がしたんですよね。」
しかし、だからと言ってミミが新たな高みに到達しなかったと言うわけでは無い。その後の数年間、Swing Out Sisterの「Breakout」や、Depeche Modeの「Enjoy The Silence」といった世界的大ヒット曲のレコーディングに参加し、The Reggae Philharmonic Orchestraの一員としてジャマイカ音楽への愛を堪能。さらに、Attica BluesのプロデューサーであるTony Nwachukwuと共に電子デュオ「Moves In Motion」を結成。そしてダンス・ミュージックにも惹かれたミミは、ミュージシャン業から一旦離れ、1990年代の大半を日本のCisco Recordsの直系流通会社を経営する事に没頭。社員数名を抱えて、日本市場向けにディープハウスやテクノ、更にダンスホールやドラムンベースのレコード買い付けやライセンス業務をこなしていた。まさかDJもするのか、という問いには「まだよ。でもNatty MっていうDJ名は持っているの!」その名前から察するにレゲエをかけると思いきや彼女はこう答える。「いいえ、Natty Mはアマ・ピアノをプレイするの!」彼女らしく我々の想像を超える回答だった。
自らの音楽活動で最も売れた作品を軸にそのキャリアを築いていくミュージシャンが多く居る中、ミミはそのような功績を残しつつも決して外部の成果ではなく、自分自身の興味や直感に突き動かされて進み続けた。自らを素直に表現し、あらゆる経験を受け入れ、好奇心旺盛に動いていると、素晴らしい出会いが訪れる。音楽は空気のようだと彼女は語る。「生きるために必要なんです」。現在進行中のプロジェクトには、 Ronnie Maxwellとのレゲエ・デュオ、ボサノヴァ・カバー・バンドでのパーカッション演奏、老人や痴呆症の為のピアノ公演、自身の壮大なソロ・アルバム制作、そしてロンドンを拠点とするスーダン人を中心に結成されたアフロ・サイケ・バンドであるThe Scorpiosの創始者の一人としてバンドを先導、イギリス中で毎回売り切れの公演をこなしている他、本レーベルから今年1月に発売されたコンピレーションの楽曲をライブで表現する世代と人種を超えたバンド、Tokyo Riddim Bandでも活躍中だ。ある意味、本作のような回顧的なコンピレーションは常に前進を見据えてきた彼女の性格に反してるのかもしれない。
2024年が始まったばかりの現在(ライナーノーツが書かれた当時)、ミミは目標としている1,000曲を学習するミッションの3分の1地点にいる。週に6〜7曲は追加している為、あと数年というところだろう。「クラシックはページ数が多くて間違いが許されないから凄く難しいんです」と彼女は言う。「私のピアノ演奏技術はこのおかげで少しは上達したと思う」。
言うまでもないが、ミミは自己を過度に謙遜している。「いつも自分の技術に罪悪感を感じているんです。今でも、もっと上手くなりたいといつも思っています。本当に終わりが無いんですよね。それが音楽の美しさであり、同時に難しさでもあると思う。常に学ぶべきことが何かあるんですよ。」彼女に将来の夢を尋ねると、グランドピアノが置かれた海の見える部屋について説明してくれた。そこでは常にマイクが回っていて、思う存分に練習して心ゆくまでレコーディングが出来ると言う。そしてもう一つ、YouTubeで独学している量子物理学をもっと深く学ぶこと。そう、小林“Mimi”泉美はたった一つのルールに従って生きている。「何かをしたいと思ったら、やる。ぐずぐずしている時間なんてないから」。
著 Anton Spice
訳 Kay Suzuki & Ayana Homma
‘Choice Cuts 1978-1983’の視聴はこちらから。
アントゥワンとミミのインタビューは以下: