タイムカプセル

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見られるためではなかったスピーカー

ピーター・ドイグ《ハウス・オブ・ミュージック》と映画館音響、ラウドスピーカーの始まり

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Feb 19, 2026
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📸 Will Tsukuda

ロンドン中心部、ケンジントン・ガーデンズにあるサーペンタイン・サウス・ギャラリーは、本来ひっそりと耳を傾けるための空間ではない。人は通り過ぎ、少し立ち止まり、また次へと進んでいく。

しかし《House of Music》の会期中、そのリズムは確かに変化していた。人は腰を下ろし、会話は自然とひっそりと弾み、時間の流れがゆるやかに引き延ばされていく。

《House of Music》は、2025年10月10日から2026年2月8日までサーペンタインで開催された、現代絵画界を代表する画家ピーター・ドイグによる展覧会。本展では、音は視覚表現に付随する要素としてではなく、体験の中心に据えられていた。絵画のそばには椅子が置かれ、レコードは一定の音量で再生され、さらに「Sound Service」と呼ばれる定期的なリスニング・プログラムも実施されていた。アーティスト、作家、ミュージシャンなどのゲストが選曲を行い、音楽を「共有して聴く」時間がギャラリーの空間に立ち上がっていた。

私達が訪れたのは、英人ミュージシャン、ジャーヴィス・コッカーがセレクターを務める日曜の午後だった。空間は瞬く間に、展示室からリスニング・ルームへと変わっていった。

まず目に飛び込んでくるのは、音響システムそのもの。巨大なホーン・スピーカー、むき出しのアンプ、現代の感覚から外れたスケール感。多くの来場者は、それらを彫刻作品だと思い込む。

これらはすべて、ローレンス・パセラという人物によってここに持ち込まれた。彼は30年以上にわたり、初期映画館用音響システム、とりわけWestern Electric製の機材を探し出し、引き上げ、修復し、実際に使い続けてきた人物。歴史資料としてではなく、稼働するタイムマシンとして。

展示に使われている機材は、すべて実際の映画館から来ている。展示のために新たに作られたものはひとつもない。いくつかのホーンには白い塗料が所々付いているが、これはかつて映写技師が、タバコの煙で汚れたスクリーンの黄ばみを隠す為に塗られた塗料が飛び散って来た痕跡。そもそも、これらは人目に触れる前提ではなかった。スピーカーはスクリーンの裏側に設置される存在だったからだ。

ローレンス・パセラ(左)、ジャーヴィス・コッカー(右)とセニョール・ココナッツ

訪問から数日後、今度はローレンスと朝食を共にし、このプロジェクトがどのように成立したのかを聞いた。会話はファッションとDJカルチャーから、廃映画館、電気工学、そしてスピーカーの起源へと広がっていった。

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ケイ・スズキ:まずはご自身のバックグラウンドから。どうしてこのかなり特殊なヴィンテージ・オーディオの世界に飛び込んだんですか?

ローレンス・パセラ:自分はロンドン生まれで、イタリア人とウェールズ人のハーフでいわゆる移民二世。キャリアの出発点はファッションで、レイ・ペトリ(*1980年代のロンドンを中心に活躍した伝説のスタイリストでファッション・スタイリングという職業をアートとして確立させた先駆者の一人)がバッファロー・スタイルを確立した時代に彼の元でアシスタントをしていました。同時に、ロンドン、パリ、香港でDJもしていた。音楽とオーディオは、理屈じゃなく、どうしても手放せない自分の“弱点”みたいなものなんです。

ローレンス・パセラと彼のホーン達

真空管機器を初めて自分のものにしたのは90年代、東京の専門店で目にしたのがきっかけでした。その頃のイギリスでは、真空管文化は完全にアングラで、軍用無線に取り憑かれた年配男性たちの世界だったんです。決して若くて「クール」な文化ではなかった。でも東京では、Western Sound Incのような店が、これらを完全にハイエンド文化として扱っていたんです。

最初は正直、音よりも見た目にやられた。「機能性が形を決める」工業デザインが、どんな現代のハイエンドオーディオ機器よりもクールでモダンに思えたんです。

それにあるレベルの解像度の高い真空管システムと、ECMのような優れた録音物が組み合わさると、もう機材を聴いている感覚は消えて、そこには、完全にアートの世界の音になるんです。


KS:そこから、実際に技術的な知識を持ち、システムを「救出」する側へと移っていったのはなぜですか。

LP:大きな転機は90年代後半、ニューヨークでヴィンセント・ギャロに出会ったことです。『バッファロー’66』の頃ですね。彼は技術屋じゃないけれど、目がとにかく鋭い。東京のWestern Sound Incの話をしたら、一緒にいた女性たちを脇にやって、紙を持ってこいと言われた。そして日本の電話番号を書き始めた。説明は一切なし。「古い映画館に行って探して来い」とだけ言われた。それで完全にスイッチが入ったんです。

ヴィンセント・ギャロ。そして彼のウェスタン・エレクトリック・システムと犬

そこから30年近くかけて、イギリス中の廃墟になった映画館からスピーカーを掘り出してきた。当時、これらは購入するものではなく、映画館に高額で貸し出されていたんです。リースが終わると、その会社は中古市場が生まれないよう、トランスや真空管を意図的に破壊していました。

生き残った個体は、たいてい田舎の何もない場所にありました。50年代に安価な新システムへ更新できなかった、ウェールズやアイルランドの小さな町。回収作業は悪夢でした。夜中に板打ちされた建物に入り、懐中電灯ひとつで、ネズミや鳩の死骸、アスベストに囲まれながら作業。修復までの保管費用だけで、これまでに20万ポンド以上は使いました。


KS:Western Electricが「ハイエンド・オーディオの始祖」と言われる理由を、簡単に説明してもらえますか。

LP:Western Electricは、電話の発明者アレクサンダー・グラハム・ベルが創業した会社です。電話の受話器は、世界初のラウドスピーカーと言っていい。話し声を電気信号に変えて、また空気を震わせる。だから“スピーカー”という言葉が生まれたんです。もともと音楽じゃなく「話すため」の技術なんです。

ベルは1920年代のイーロン・マスクみたいな存在。世界トップクラスの物理学者や数学者を1500人以上抱えながら金に糸目をつけず新技術の開発が出来たんです。1926年、ワーナー・ブラザースが当時のライバル映画会社達との差をつけるために音声映画へ移行することを機に、この電話技術を映画館用に拡張するために協業開発したのが始まりだったんです。

あの曲線はデザインじゃない。極小の振動板で効率よく空気を動かすための、指数関数に基づいた数学的形状なんです。彼らは妥協しなかった。自社の鋳造所を持ち、高純度の銅線やトランスを自前で作っていた。Class Aトライオードも彼らが確立した技術です。

300Aや300Bと呼ばれる真空管モデルは、この世界の神話的存在。1934年頃に完成し、扱いやすい電圧で8ワットという完璧なバランスに到達。現代の復刻品は、やはりレプリカに過ぎません。当時のカソード素材は、もう再現できないんです。

ロンドンの180 Studiosに現在常駐するOJASサウンドシステムのアンプにもWestern Electric の 300B 真空管が装着。

KS:ピーター・ドイグとのコラボレーションは、どのように始まったのでしょう。

LP:元々はロンドンにあった自分のプライベート・スタジオから始まりました。LAから戻って工業用スペースを借り、長年保管していた巨大な機材を組み上げた。ロックダウンのおかげもあって、2年かけて復元と調整をしたんです。

商業目的ではありませんでした。マスタリング・エンジニアやミュージシャンがアセテートを持ってきて、1930年代のシステムで聴く。ただワインとピザを用意して、機材の歴史について話すだけ。1929年の観客が体験した“Voice of God”(”話し手が見えない声”の事)を、同じように聴きたいという色んな人が引き寄せられただけでした。


ピーターとはそれまで面識がなかったけれど、ある日、何人かとスタジオに来て、しばらく聴いて帰って行きました。その数ヶ月後に彼は自分の機材をちょっと見てほしいと連絡をしてきたんです。

正直自分はアートの世界に詳しいわけじゃないんです。彼のスタジオに行った時に壁にたまたま知ってるアレン・ジョーンズの絵を見つけて口に出したんですが、他に飾られた多くの壁の絵はまったく見た事がなかったんです。「他は全部僕の絵だ」と言われた瞬間に理解したんです、彼がどんな人物なのかを。けれど重要だったのは肩書きじゃない。彼が「ちゃんと聴く」人間だということでした。(*訳註*ピーター・ドイグは権威ある英国の美術賞ターナー賞にもノミネートもされた現代最高峰の画家)

今回のピーター・ドイグの個展《House of Music》では、複数の部屋に異なるシステムを配置し、視覚と音が交差する多層的な環境を作りました。音は、ギャラリーの感情温度そのものを変えるんです。

初期の段階で、あるジャーナリストに「なぜこれをやるのか」と聞かれたことがありました。そこでその記者に「10分ください」と答えて音楽を止めたんです。5分もしないうちに普通に会話していた人たちが、無意識に声を落とし始める。自分の立ち位置や姿勢を気にし出す。空間は教会のような緊張感を帯び、人はどこに立てばいいのか分からなくなる。さらに数分後、音量をゆっくり戻した。するとすぐに空間が柔らぐ。身体が緩み、会話の質が変わる。人はその場に留まり始める。

これが僕の言う「ギャラリー不安症」。音がないと、人は見られている感覚に支配され、何かを“理解しなければならない”という姿勢になる。音があると、それがほどける。分析ではなく、体感モードに入るんです。

興味深いのは、今回の個展に対して事前知識をまったく持たない来場者が非常に多いこと。少なくとも半分の人は、スピーカーを彫刻だと思っている。自分が作った新作だと思う人もいる。わざと古く見せた現代作品だと勘違いする人もいる。

そこで「これは実在の映画館用に作られた音響設備。1920〜30年代の生き残りなんです。」と説明すると、そこで空気がガラッと変わる。彼らは初めて、「本来は見られることを想定されていなかったもの」の前に立っていることに気づく。

映画業界の人間の中には、この歴史を知らなかったことに衝撃を受ける人もいる。現代の音響文化は、すべてここから始まっているのに。一方で、年配のエンジニア、マスタリングに携わってきた人、長年音楽と向き合ってきた演奏家たちは、説明なしで理解する。

これまでに、デヴィッド・バーンやブライアン・イーノ、マックス・リッチャーまで、さまざまな人がここを体験しに来ました。


この展示には、来場者のほとんどが気づかない数多くの困難があった。そのひとつが、ギャラリーの照明。設置から25年が経過したハロゲン照明や、MacやiPhoneの充電器に使われているようなスイッチング電源は、電源ラインやアース(グラウンド)に大量のノイズを流し込む。そのノイズが接続された機材へとフィードバックしてしまうことがある。オリジナルの映画館では、この問題を回避するために、上映中は街の電力を使わず、部屋いっぱいのバッテリーを使用していた。完全にクリーンで安定した電源を確保するためだ。

自分は20年間ずっと“モノラル派”を通して来た。ステレオは、しばしばギミックに過ぎない。映画館やコンサートで必要なのはスイートスポットではなく、全員に等しく当たる「音の壁(Wall of Sound)」なんです。サーペンタインに設置されたWestern Electricと、1950年代のKlangfilm Euronor(かつてクラフトワークのフローリアン・シュナイダーが所有していた個体)は、そのための構成になっている。単一で圧倒的な存在感を持つ音なんです。

Klangfilm Euronor スピーカー
個展を主催する画家ピーター・ドイグとローレンス

KS:近年のリスニング・バーやブティック・オーディオ・ブランドの流行については、どう見ていますか。

LP:正直に言うと、現代のリスニング・バーやブティック・オーディオの多くは、技術よりマーケティングが先に立っている。90%の人が違いを聴き分けられない前提で作られている。回路は単純化され、パッシブ・プリアンプや廉価なカートリッジが使われる。その結果、音のエネルギーはどうしても平板になってしまう。

ただ、若い世代がオーディオの世界に入ってきていること自体は、とても良いことだ。見た目から入るのも悪くない。問題は、並外れた歴史を借用しているだけで、その中身が継承されていないケースが多いこと。

Hi-Fi雑誌も、状況を悪くしてきた。いつも不必要に権威的で、「正しい聴き方/間違った聴き方」を作り出す。でもこのギャラリーでは逆のことが起きている。若い人、特にインディペンデントな女性たちは、あまりに極端な機材を前にして、自由に好奇心を持てる。「知らないこと」を恥じなくていい。1930年代の映画館用音響を本当に理解している人なんて、実際ほとんどいないからだ。“機材に詳しい彼氏”でさえ分からない。だから場がフラットになる。知識ではなく、聴くことを中心に、ほとんど無意識のレベルで人がつながる。空間が緩む。


展示が終わったあとに残るのは、巨大なホーンや希少な真空管の印象だけではない。

残るのは、人の振る舞いの変化。人は座り、耳を澄まし、空間は静かに落ち着いていく。

サーペンタインに設置されたこれらのシステムは、本来「見られる」ためのものではなかった。毎日確実に空間を満たすために作られた機械。間近で見ることでわかるのは、優れたエンジニアリングとは誇示ではなく機能であるということ。

そして、それが正しく機能するとき、人はその場に留まる。

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